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海の家の醤油らーめん ~幼き頃の田舎の想い出~ [おとうの独り言]

 おとうが小学校入るか入らないかぐらいのお話になりますかね。←昭和40年代は間違いない

 母方の田舎が岩手県の海岸線にございまして。

 夏休みに7つ歳の離れた兄と二人でその田舎を訪れたりしておりました。

 当時は東北新幹線などなく,上野駅から特急「はつかり」に乗っていきました。

 お楽しみは食堂車のハンバーグ!

 昔は特急列車には「食堂車」ってのが連結されていて,食事出来たんですよね!

 少々お高めではあったかもしれませんが,これがとてもとても楽しみでありました。

 特急は岩手県の玄関口・一ノ関駅まで。

 ここから先は所謂ローカル線の大船渡線に乗り換えです。

 記憶が曖昧ですが,2両編成位だったかな?

 ディーゼル機関車が曳いていたような気もします。

 ま,その辺は鉄道マニアの方に聞いてください。

 目的とする田舎の駅までは,岩手三陸の山中をそれこそ蛇行するような路線で走っていた気がします。

 かなり・・・いや,すごくのんびりとした鉄道でしたね。

 途中の最も大きな駅が気仙沼!

 ここでようやく海の近くになるんですよね。たしか。

 そうそう,この大船渡線は全部岩手県内を走っているものだと思い込んでいましたので,かなり大人になるまで気仙沼って岩手県だとずっと思い込んでたんですよね。

 ここから先は一応海岸近くなんですが,元々リアス式で山地が海まで迫ってますからね。

 結局見える景色の多くは山だったり山だったり田んぼだったり・・・

 ほとんど緑の景色を見ていたような記憶になってますね。

 体感的には上野から一関までの特急列車に乗っている時間と,一関から目的の駅まで行く時間がさほど変わらないくらいに感じていましたね。

 そんなことないんでしょうけど。

 大学生になって,レンタカーで一関から田舎まで走った時は,車だとこんなに早く着くのか!って驚いたほどです。

 まあ,ローカル路線ってそんなもんですよね。


 田舎の駅は上りと下りのホームの間を線路まで下りて渡る所謂ローカル線の駅でしたね。

 東京杉並の中央線沿線に住んでいた子供の頃のおとうには新鮮でしたね!


 駅から母の実家まではタクシー!

 この町では多少名の知れた家だったので,「屋号」を言えばすっと連れてってくれます。

 この町では大抵のところでは「屋号」を言えば用が済みます。

 全く面識のない方でも,「あぁ,●番目の●●さんの息子かい?」みたいにこちらは知らんのですが,あちらは詳しく血筋を理解されているようで。。。

 それこそ大学生の頃に東京赤坂の工事現場でバイトしてた時に,偶然居合わせた岩手からの職人さんの一団と立ち話をしてる中でも,屋号の話をしたら「あぁ,(以下同文)」となり,それからやたら休憩の時にお菓子とか貰えるようになりました。

 恐るべし田舎のつながり・・・



 母の実家はそれなりに大きめの古い家で,蔵だの納屋だのあって,木造建築として立派なものであったと記憶しております。

 いつぞやネットで調べてみたら,日本四大名工の一つ「気仙大工」の残した仕事の一つとして,その家の門や縁側,階段の手すりなどが紹介されてたんですよね。

 今はもう見ることが出来なくなってしまったので,ネット上にあるこのデータはとても貴重に思えます。

 それこそ気仙大工のことを知らなかった子供の頃のおとうでも,この階段の手すりの木目とか質感が見事なものであったと感じておりました。

 あと,トイレが漆張りって言うのかな。。。

 テカテカに輝いていて,そこで用を足してよいのかどうか迷っちゃったことを思い出しました。


 庭には池があって鯉が泳いでて。。。たしか泳いでて。。。←曖昧

 立派な縁側には毎朝なぜかクワガタムシが落ちてましたね。。。←ナゼ?


 家の後ろ側にも裏門(こっちの方が立派)がありまして,ここを抜けると目の前は気仙川の堤防になります。

 堤防越しに町の主幹通りが川を渡る大きな鉄橋が見えて,その先には海が。。。

 夕日とか綺麗でしたね!

 夕方,堤防の上でぼぉ~っとしてるのが好きでした。

 たまにプ~~~ンと牛の臭いなどが流れてきたりしてましたね。。。

 母には昔のチリ沖地震の時はここを津波が上がっていって・・・って話を,写真を見せてもらいながら聞いたことがありましたね。


 この町の海岸線にそれはそれは見事な松原がありましてね。

 「高田松原」って観光名所になってました。

 おとう的には後ろに松がいっぱいある海水浴場!って思い出だけなんですけどね。

 松原から高い高い防波堤(防潮堤)の大きな大きな開閉門を抜けると白くて広い砂浜が広がっていたと思います。

 幼心にこの堤防があって,扉があるから,きっとチリ沖地震津波みたいのがきても大丈夫なんだな!って思ってました。


 子供でしたからね。

 夏は海ですよ!砂浜ですよ!

 ほとんど記憶は曖昧なんですけどね。

 いとこ連中とかも一緒にいて,なんか楽しかった!ってことは覚えてます。


 そんで遊ぶだけ遊んだらお昼は堤防近くの日陰にある海の家となります。

 なんか色々食べたんでしょうけど,舌が覚えてるのは醤油らーめんだけなんですよね。

 海の家ですからデフォルトで海藻の類はしっかり入っていたと思います。

 麺はもしかするとぼそぼそだったかもしれません。

 でもね。。。

 醤油ですよ。

 醤油をしっかり舌に感じさせてくれたあの味はメモリーされてますね。

 美味いってわけじゃないんですけど,夏の日差しで汗かいて,塩分が欲しかったところの醤油は体にしみたんでしょうね。。。←高血圧の元?

 ギラギラとした日差し
 白い砂浜
 醤油らーめん
 そびえたつ松林と大きな堤防

 50年近く前のおとうの夏の想い出ですけどね。


 そんな幼き頃の田舎の想い出の町。。。


 10年前の東北震災で大きな被害を受け,町は一時的にすべてを無くしました。


 思い出の全てがなくなりました。

 松原の美しい砂浜も。

 津波から守ってくれるものと思っていた堤防も。

 大きな鉄橋も。

 夕日の綺麗だった家の裏の風景も。

 ここが母の故郷なんだと実感させてくれる風や匂いも。。。



 10年経ち,今,この町は新しい形で生活が始まっています。

 震災後数年は訪れておりましたが,ここ数年は行けてませんでしたので,情報はテレビや電話で聞いたレベルです。


 新たな形として様変わりした様子は嬉しくもあり,少し・・・

 いや,想い出のうんぬんより新たに歩む形が大事なんですよね。

 がんばれ!


 そんな亡き母の生まれ故郷。

 陸前高田と言うところでございます。

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